褒めてほしい 認めて欲しい
今はとてもよい時代で、褒めて育てることが、すくすくと明るく育ち、しかも才能を伸ばすと知られ、多くの親が実践し、教育者や指導者が採用している。
わたしが育った時代には、少なくとも私が育った環境においては、日々の暮らしに追われ、食べる生きるに必死だったこともあり、そこまでは考えが及んでいなかった。
恵まれた人を見ると、まず羨ましく思い、次いで妬ましくなり、やがて何でこんなに差があるのかとの思いが湧き、なんだか許せなくなる。そんなことも多かった。
いまに見返してやるとの強烈なエネルギーを発揮する。ひとかどの人に成り上がってやると歯を食いしばる。そんなことができたらよかったとも思うが、生来が、そういう持ち味の人間ではなかった。
だが子供のころを振り返ってみると、やはり本能的に褒めてもらうことに快感を覚え、いつも欲していて、それが私なりの向上心の動機になった。友達には一目置いてもらいたいと思い頑張ったから、それなりの結果は得ていたが、当時のことで、心の豊かさなど縁遠い子供たちだったから、尊敬よりも、むしろ妬みをかうことが、より多かったに違いない。
思春期からは勉強もよくしたが、そこには何かを目指そう極めようというような目的があったわけではない。それはとても難しいことだと今でもそう思えるので、当時のわたしには仕方のないことだった。
勉強はただ先生に認めて欲しいから、ほかの子に負けるのが悔しいというより、自分に向けられている小さな敬意が消え去るのが恐い。そんな感じだった。
その後も基本的には、ほぼ同じ感覚で、そろそろ老いを迎える年ごろまで生きてきた。そして今、それなりの、それにふさわしい、物足りなさの多い結果を背負って生きている。
切り替えればどうにかなるのか?
もはやならないことが大半ではあるが、どうにかなることも必ずあるはず。
褒められる、認められるは結果であって、目的ではない。動機にしてはいけない。大人になるとはそういうことだと、60を過ぎた今になって、やっと思えるようになってきている。
具体的にどう実践していくのか?
これから、とにかく始めてみること。よーいどん。