差別

 福沢諭吉の言葉「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」を私は思春期のころに歓喜の思いをもって受け止めた。

 私は、それ以来、人はすべて平等あり、いわれなき差別をうけることはなく、してはいけない。そんな純粋な気持ちを培養し続けている。

 一時期は、経済的な豊かさと貧しさも許されないという、いささか極端な考え方に惹かれることもあった。だが、いつしか、それは出生による差別や人種や国籍での差別とは、まったく次元の異なるものであることが理解できた。

 人には違いがあって、それは差別と重なることはあっても同じではない。

 人には力量があって、それは正当に認められなければならない。

 人には人格があって、それを感じ取り、適正に受け入れることで共生できる。

 いろいろな分野で人が人にはらう尊敬の度合いも天高く海深い。

 そういうことを理解するに至った。

 だが、人が偉大さを崇敬することは尊いが、誰かに卑下する必要はないものだと強く思う。序列や階位というものは特定の集団の中での合意事項として成り立ち、そこでのみ働く機能であって、それは人としての上等下等を規定するものであってはならないと信じている。

 そんな私が「お経」の中で展開される物語に接するときに、どうしても解せない思いに駆られるのが仏様の世界においても、格付けや序列あるいは階級についての、どぎついほどの表現。

 もちろん、これらは古代インドの極端なカースト制の社会から生まれ出たもので、その時代に生きる人間の自然な意識を反映している。そのことは理解する。そして、そんな人間世界の矛盾からの超越を説いている。そう思いが至る。