文字は表現のツール

 文字は表現をするためのツール。どんな文字が最適かは場合により判断が変わる。

 日本語は便利だ。漢字、ひらがな、カタカナとあり、さらにalphabetを使うのも自由なんだから、実に多彩で豊かな言語だ。

 だが、言葉を口にしたとたんに、その良さが幻と化する。しゃべると漢字も仮名もアルファベットもない。そこにあるのは音の世界。話す言葉の文字は目では確認できない。耳で聞いて、脳に伝達されて想像、判断、理解、がなされる。発信者のイメージする文字と受信者が脳で再現する文字が完全に一致することは、ありえないほどに難しい。

 日本人として生まれ、育てられた私は、言葉を文字に置き換えて理解する習慣に染まりきっている。そこに、なにか足りないもの、それではまずいものが、ありはしないかと思いかけている。

 日本人と日本人が会話するんだから、それでいいじゃないか、とも思えるが、いや違うと、さらに思う。

 たとえば「ことばはことばだけでかよいあうもの」であっても「言葉は言葉だけで通い合うもの」と書いたほうが文章で伝える場合は確かに優れている。

 これを「ことば は ことば だけで かよいあう もの」とすると、会話に近い理解ができるが、文章としては機能性が低く、美的でもない。

 これから探すのは、会話に近い文章を読みやすく美しく書くこと。漢字は、ただ、かなの置き換えに過ぎない。そんな文章にしたい。

 ぶんしょう、はワードでもセンテンスない、日本人が聞いて理解する日本語なんだとする。口から耳へで伝わる日本語の単語であって、文章なる漢字の意味を伝えようとするものではない。文章と書くときは、そのほうが、わかりやすく美しい。そう感じるから。これからは、これが私流。