寄らば売れっ子の陰

 いつのころからだろう。今では当たり前になってきて、そんな思いも薄れてきている。どうして、名の知られた大企業が次々と同じタレントをコマーシャルに使うのだろう。そんな疑問。

 子供のころから見てきたテレビでは、コマーシャルに出てくるタレントを見てスポンサー会社が思い浮かんだ。誰々はどこ。それは決まりごとのようだった。

 大スターを高い契約金で使い、いきなりインパクトを突き付けてくる会社は当然あるけれど、売り出し中の新人を起用して、新鮮さを打ち出し、そこからタレントが育っていく。そんな会社のコマーシャルは魅力的だった。

 タレントを使わない会社も多かった。ダンスユニットのように、特定の個人タレントによらない個性的なコマーシャルなど、楽しくて墓場まで記憶に残るような作品がたくさんあった。

 時代が変わった。その一言がすべてなんだろうか。

 今は、超売れっ子の、あの人たちが、どのチャンネルからも次々と登場する。みーんな好感度だとかを基準にして、特定のタレントのインパクトに頼って、相乗りをしようとする。

 企業にプライドが感じられない。創業者の個性や精神が消失している。バブル崩壊から、合併や統合が次々となされ、調整されて、平均化されてしまった。M&Aで売り買いされ、だだ経済的合理性や組織的機能性だけが追及される。そんな企業が世の中の主流を占めるに至った。会社はマンモスのように肥大して、トップはワンマンではいられない。最大の敵は社内にいる。いつ裏切られ、足元をすくわれるか知れぬ組織の中で、バランスのとれた安全運転をしなければならない。

 もっとも安全で確かな計算のできる広告をよしとする。冒険は社内的なリスクに通じる。現場の社員にまで伝染した、いまどきの経営トップの不安感。それが、寄らば売れっ子の陰になっている。そんな感じがする。

脱インテリ

 インテリあるいは知識人。ひょっとすると、私は人生のどこかから、それを追い求めてきたのかも知れない。学歴社会と言われるものは、インテリジェンスで世の中を導く階級に仲間入りするには、ともかく良い学校にまぎれこむことだ。皆が、そう考える時代であるのかも知れない。

 学校を出て、教養を積む。あるいは、その過程を通過することで、ある種の資格を得る。それはまるで運転免許証のように、徒歩でしか進めない人と差別化されるための証になる。そしてそれは、そのような人間たちと競い合うレースへの参加資格ともなる。

 この文章の書き手は、読み手にインテリジェンスを強要している。そのように思えるときがある。教養の水準を当然と要求し、わからないやつは馬鹿だと言いたげな感じがする。そして「私のすごさを認めろ」と叫んでいる。

 自分を先生と呼ばせる連中に、ろくなやつはいない。そう感じる時代に、どんどん進んでいる。そう呼ぶ連中の腹の中は真っ黒で、どうにかして自分に利益を引っ張り込もうとしている。

 どの世界にも有力者がいて絶大な影響力を持っている。それも現実に違いない。そんな人が、真の偉人なのか、似非なのか、意外とあっさり見抜かれてしまう時代になってきている。言葉の中から噴き出す傲慢さ。そのイヤミが見透かされるとき、品格が疑われ、尊敬が吹き飛ぶ。

 読み手や聞き手に要求するのではなく、様々な分野に得手不得手のある、幅広い人々に、自分の言葉を、心地よく、より正しく、できるだけ深く、謙虚な気持ちで語りかける。そんな人が大好きだ。そんな人になりたい。

かなしい、にくい

 かなしい、にくい、など気持ちを表現する単語は独立させたい。たとえば「わたし、かなしい」とか「きみが、にくい」のように。

 かなしい、には、悲しい、哀しい、がよく使われ、文学的表現では、こだわった使われ方をしている。それは、それぞれの漢字に由来やイメージがあるから。

 でも、口から出る「かなしい」が漢字で表記されているわけではなく、聞く人が「悲しい」と聞くか「哀しい」と聴くかは、場のムードや、その人の感受性による。

 肝心なことは漢字でどう書くかではなく、その場の状況や演出したいことを適切に表現しながら「かなしい」を口から出る言葉として書く。そこにある。それができれば読み手がイメージを浮かべる。書き手と読み手に、よい会話ができる。きっと、そうだと思う。

文字は表現のツール

 文字は表現をするためのツール。どんな文字が最適かは場合により判断が変わる。

 日本語は便利だ。漢字、ひらがな、カタカナとあり、さらにalphabetを使うのも自由なんだから、実に多彩で豊かな言語だ。

 だが、言葉を口にしたとたんに、その良さが幻と化する。しゃべると漢字も仮名もアルファベットもない。そこにあるのは音の世界。話す言葉の文字は目では確認できない。耳で聞いて、脳に伝達されて想像、判断、理解、がなされる。発信者のイメージする文字と受信者が脳で再現する文字が完全に一致することは、ありえないほどに難しい。

 日本人として生まれ、育てられた私は、言葉を文字に置き換えて理解する習慣に染まりきっている。そこに、なにか足りないもの、それではまずいものが、ありはしないかと思いかけている。

 日本人と日本人が会話するんだから、それでいいじゃないか、とも思えるが、いや違うと、さらに思う。

 たとえば「ことばはことばだけでかよいあうもの」であっても「言葉は言葉だけで通い合うもの」と書いたほうが文章で伝える場合は確かに優れている。

 これを「ことば は ことば だけで かよいあう もの」とすると、会話に近い理解ができるが、文章としては機能性が低く、美的でもない。

 これから探すのは、会話に近い文章を読みやすく美しく書くこと。漢字は、ただ、かなの置き換えに過ぎない。そんな文章にしたい。

 ぶんしょう、はワードでもセンテンスない、日本人が聞いて理解する日本語なんだとする。口から耳へで伝わる日本語の単語であって、文章なる漢字の意味を伝えようとするものではない。文章と書くときは、そのほうが、わかりやすく美しい。そう感じるから。これからは、これが私流。

 

差別

 福沢諭吉の言葉「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」を私は思春期のころに歓喜の思いをもって受け止めた。

 私は、それ以来、人はすべて平等あり、いわれなき差別をうけることはなく、してはいけない。そんな純粋な気持ちを培養し続けている。

 一時期は、経済的な豊かさと貧しさも許されないという、いささか極端な考え方に惹かれることもあった。だが、いつしか、それは出生による差別や人種や国籍での差別とは、まったく次元の異なるものであることが理解できた。

 人には違いがあって、それは差別と重なることはあっても同じではない。

 人には力量があって、それは正当に認められなければならない。

 人には人格があって、それを感じ取り、適正に受け入れることで共生できる。

 いろいろな分野で人が人にはらう尊敬の度合いも天高く海深い。

 そういうことを理解するに至った。

 だが、人が偉大さを崇敬することは尊いが、誰かに卑下する必要はないものだと強く思う。序列や階位というものは特定の集団の中での合意事項として成り立ち、そこでのみ働く機能であって、それは人としての上等下等を規定するものであってはならないと信じている。

 そんな私が「お経」の中で展開される物語に接するときに、どうしても解せない思いに駆られるのが仏様の世界においても、格付けや序列あるいは階級についての、どぎついほどの表現。

 もちろん、これらは古代インドの極端なカースト制の社会から生まれ出たもので、その時代に生きる人間の自然な意識を反映している。そのことは理解する。そして、そんな人間世界の矛盾からの超越を説いている。そう思いが至る。

 

 

 

 

インスピレーションの共有

人に合い、話を聞いて、その場でのことを体で感じ取る。そこで生じるインスピレーションは人ごとに違いがあるが、共通することもある。

宗教的な感覚というものは、とても多くの人々がインスピレーションを共有することなのかもしれない。

「私は、このように感じた」

「私も、そうだ」

「私もだ」

「そう、私たちも」

そんな波が一瞬にして広がっていく。そんな体験が語り継がれる。

 

流れ

森羅万象には流れがある。時が動くとき宇宙のすべてのエネルギーが移動する。今の時点でエネルギーと確認されているもの以外の未確認なエネルギーのようなものも動くに違いない。

私が捕捉できることも少しはある。今の生命力や過去の経験を総動員しても、ほんのささやかではあるが感じ取れる流れがある。

流れが来ていると気付くこと。それが潮の満ち引きのように来ようとしているのか、あるいは去ろうとしているのか。直線的か蛇行しているか。急激なのかスローなのか。それらを勘あるいは先見性でつかむ能力のあるなしが運の良し悪しの結果につながるのかも知れない。

流れは常なので、つかめず乗れずであっても、すぐに次の機会が来る。流れを無視しない。楽しむ。そんなことが人生の実りに関わるようか気がする。

 

大阪にいる息子さん娘さん

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