見抜く聞き抜く

始めてに人からの電話で、その人がどんな人間なのか、今どのような状態なのかを正しく判断するのは、ほとんど無理なこと。それでも経験を重ねると、ある程度はイメージすることは可能になる。

だがその前に、相手のこと以前に、自分のことがある。自身に不安感や焦りがある。なので、どこか不吉を呼び込んでしまうような状態になっている。魔はそこに忍び込んでくる。

その手の人間には、なぜかそうしてしまう精神状態が共通してあるように思える。淋しさからなのだろうか、ときおり他人に絡みたくなってしまう。その獲物に狙われるのが一般にオープンな商売をしている我々のような存在。彼らや彼女らにしてみれば、とても安全な相手で、お客様として立ててくれて、いうことをハイハイと聞いてくれる。これに気付いて味をしめると、やがて習慣になる。

商売人とは、かように難儀なものだと知るには時間がかかる。他人を猜疑心で見る人間には商売はできない。少なくとも起業はできない。商売は他人との相互信頼によって可能になる。

結局は人間力を高め、見抜く、いや聞き抜くことができるようになるしかない。その前に自分の覚悟を据えなければならない。

 

旅先でf:id:smilecarry:20171102184152j:plain重い荷物をホテルまで

 

 

責任をとれ!

 ある国での話。その国の職場では、役所であれ民間企業であれ、ことあるごとに責任を取らされる。自分自身のミスはもちろん、管理職であれば部下が、トップであれば職員のだれかが不祥事なるものを引き起こすと、管理責任の名のもとに、あるいは組織の威信なるものを守るために、上司や経営者が世間に対し責任を示すよう求められる。

 その国にも、かつては封建時代があって、歴史物語によると、切腹という名の死刑やら、お家断絶やら、お役御免など、実に厳しい責任を負わされたとのこと。どうやら、そのころからの気風のようなものが伝統として受け継がれてきている。

 さすがに今の時代では、死を命ぜられることはない。だが、極めて責任意識が強い人が周囲の重圧の中で自殺に追い込まれることは、けっこうある。また懲戒免職と名を変えた追放はあり、職を失い、自分だけでなく家族にも害が及ぶこともある。

 とはいえ、よほどの場合は別として、大半は責任者としての職位の去ることで社会的に責任を示すことになる。世間になるほどと思ってもらうには、組織の中であれば降格が必須であり、そうなると、された人物も、彼とともに仕事をする人たちにも、なんだか間が悪い。

 そこで知恵が必要になる。誰しもが責任を取らされる出来事に遭遇する。いざとなれば責任を負う覚悟がなければ大事はなしえない。だとすれば、責任はとっていただくものだとの認識が必要になる。責任をとってもらうと同時に、その人の生活を守ってやらなければいけない。できるだけ名誉の棄損が小さくなるような配慮も必要。

 その国の一流とされる組織体には、巧みに編まれた構造体がある。あみだくじの網を、一つ下がって、横に動くように、その構造体の中を移動する。その先が居心地よければ居ればよし、戻りたければ時間を置いてからチャレンジもできる。

 その国のマスコミは「責任をとれ!」と厳しく追及する。相手が官公庁の官僚である場合は特に厳しい。官僚が官民を絡めて編み上げた構造体を移動すると「天下りだ!」と叫ぶ。取材と称し、構造体の各所を暴露する。

 その国のマスコミの中心にいるのは、それは名の知れた大企業で、新聞、放送、出版、通信、それらを支える数多の企業をグループ化している。そこでも、責任による移動は常のことだが、自分のことは報道しない。マスコミ界は、お互いさま。こうして、世間の目は届かない。

 これは、私が友人から聞いた、ある国での話で、真偽のほどはわからない。

言論の家元

 むかしむかし、海の向こうに、とてもとても平和を愛する人々の住む国がありました。戦争はしてはいけない、決してしない。他の国での戦争にはかかわらない。軍隊はいらない。そんな主張をする人でも、誰かに咎められることもなく、自由な言論として受け入れられていました。

 幸いにも長い期間にわたり戦争のない時代が続きました。すると、このような主張をする人たちのリーダたちは世襲され、言論という文化活動の家元のようになっていきました。平和流や理想流といった流派がいくつかできあがりました。

 家元ともなると、流派のしきたりに従い振る舞い語る。その姿は凛々しく、話す口調は流麗そのものです。流派につながる人々に支えられ、安定した地位が確保され、中流の上、あるいはそれ以上の暮らしができました。

 そのもっとむかし、思想というものは、人が成長する過程で獲得するものでした。多くの場合、もがき苦しみ、血を流し、涙を流しながらの決断をして、同時に多くのものを失いながら、その末にようやく到達するものでした。

 このように思想が世襲されるようになると、言論の真剣勝負なんてなくなります。竹光や竹刀で形だけの勝負をするだけになります。なんて平和なことでしょう。ひょっとすると人類の理想が実現した。そう思えるかのようでした。

深く眠れない夜

 床に就く前に一瞬の小さな興奮が脳内を走る。交感神経が蠢く。すると、もう眠れなくなる。目を閉じて、気持ちを穏やかにと念じても、もはやコントロールできない。時間が過ぎると、さすがに少し疲れてきて、うつらうつらする。すると悪夢のドラマが始まる。横たわった体は、ある程度、疲労がとれていくが、意識はまるで薄明かりの小さな切れかかった電球だ。

 2時間ほど過ぎると、おしっこがしたくなる。トイレに立つ。意識は朦朧。床に戻り眠らせてくださいと祈る。ちょっと穏やかな気分になり、しだいに薄い眠りがやってくる。すると、またドラマの続きが始まる。

 何回か繰り返し、朝が来て、もう起きなければ仕方のない時となる。ぼんやりとした目で布団を出る。寝た気がしない。

 

自分らしく生きる

 自分らしく生きる。なるほど。それはいいね。そうしたい。でも、それはそれは大変なことだよね。

 自分は自分だけで生きているわけではない。そう、多くの人に、社会に支えられて生きていけている。感謝して生きなければと思う。それは大事。

 自分は周りとともに生きている。仲良く調和しながらが大切。でもそれが自分を偽っているように思えるとき、それは自分が良くないのか?

 人間界には必ず一定の割合で悪い奴がいる。これは、ずっと昔からそうで、時代が進めば良くなるものでもない。そんな奴らに行く手を遮られたらどうする?

 人間界には、どうしようもなく弱い人がいる。災害や事故や色んなことで不幸に見舞われ追い込まれることがある。そんなとき良い人だけで生き延びられるんですか?

 自分らしく生きる。容易なこっちゃない。

天からの監視カメラ

 町のいたるところにある防犯カメラ。自動車にはドライブレコーダースマホで即座に撮影できる写真や動画。考えてみれば、ずっと監視されて生きているわけだ。

 悪いことをすると、人の目は逃れられても、天の神様には見られていると言う。きっと神様も忙しいから、天から監視カメラで映しているのだろう。

修行

 修行をする。思い浮かぶのは、お坊さんと板前さん。

 山にこもり、限界的に質素な生活を読教や座禅、ときには苦行や荒行とよばれる、きつーいトレーニングの日々を自らに課す、職業としての宗教者である僧侶。

 かつては包丁一本晒に巻いて。いまでも、いくつかの店の板場を移りながら、料理の技術と精神を研修して育っていく料理人。

 このふたつが典型的な例としてわかりやすい。

 とはいえ、すべての職業で、一定程度の技能を習得し、労働や行為に対し対価を得るに至る。その過程はどれも修行と言える。

 また、たとえ職業的な技能でなくても、上達するために努力する。これもまた修行と言える。

 そして、心や精神の内面的なことでも、人が向上しようとする行為も修行である。

 自らの工夫で上手になることも修行、他人から教えてもらって身につけていくことも修行、すべての人の、前に向かって努めることはすべて修行である。

 修行をする。それは、より良く生きようとすること。私は、そう考えることにしている。

 

旅先でf:id:smilecarry:20171102184152j:plain重い荷物をホテルまで